XXCLUB大島育宙のほざくこと

できる限り再読に耐える文章をアップできるよう努めます。

大喜利について語るときに僕の語ること

 
皆さんは「大喜利」と聞いてピンと来ますか。
 
 
お題に対して面白い答えを思いついたら手を挙げて答えると言う遊びで、「笑点」などでお馴染みと言えば詳しくない方でもイメージが湧くかと思います。最近では『IPPONグランプリ』などの影響で、手持ちサイズのホワイトボードに書いた答えをお客さんに見せながら読み上げる形式がお笑いライブ界隈では定着しています。
 
 
大喜利はすごいです。みんな真剣に手元のホワイトボードと向き合っています。じっと真顔で虚空を見つめている人もいれば、自分の思いついた回答にニヤついてる人、黙々とペンを走らせている人もいます。ところが一転、司会に指された一人が本当に面白い回答をすると、みんな一斉に自分の作業を中断してアハハと笑います。
 
多様性の承認のレベルがえぐいです。大喜利が好きな芸人さんやハガキ職人さんたちは、みんな人並みよりも多めの自己顕示欲を持っている以上、我がが我ががとアピールしたいはずなのに、他の人の答えも熱心に聞きたがります。自分の発想を表現することと他者の発想・表現を認めることは矛盾しない、ということがこれほど好くわかる瞬間もなかなかないです。
 
 
 
 
大喜利が強い芸人=デキる芸人」という風潮が嫌いでした。
 
私は見た目や経歴から、頭がいい立場を求められることが多く、大喜利も余裕でできるんじゃないかと思われがちです。ただ、学ぶのが得意だったり好きなことと、豊かな発想をアウトプットすることは全然別の能力で、私は後者が滅法弱いのです。
 
 
私がこねくり回したような浅はかな答えを出すと、「あれ、面白くないな?」「でも、なんかこの人賢いっぽいな」「実際に賢いかはともかく、周りから賢いとされてるっぽい態度だな」「ってことはこの答えも面白いのかな」「実際に面白いかはともかく、とりあえず笑っとく雰囲気なのかな」という判断がお客さんの中で瞬時に働いて、丁度「ウケたともすべったとも言えない変な笑い」が起こります。そのまま何の余韻もなく、何事もなかったかのように次の人の回答が始まります。要するにみんなに気を遣われるのです。それが申し訳なくて、ライブで大喜利の企画に出ないように出ないようになるうちに、私の大喜利力はどんどん弱っていきました。
 
 
 
 
その頃大喜利が楽しくなかったのも今思えば当然だなと思います。団体競技個人競技と履き違えていたからです。
 
 
大喜利をみんなでやる醍醐味は「多様性をどこまで広げられるか」という目標に向かうチームプレーにあるのかな、と思います。
 
みんながまだ塗りつぶしてない余白を見つけてどんどん色を塗っていく共同作業です。鋭い回答が場をワッと盛り上げるのは、単なるウケを越えて、「あ、そんなところにまだ余白があったか!でかしたぞ!」という昂揚に私には見えます。もちろんその過程で「自分らしい答えを出したい」「特に笑いを取って目立ちたい」という欲求も働きますが、それは場全体の盛り上がりに寄与するし、決して他の人の表現を邪魔する承認欲求ではありません。この点は、客席が20ぽっちの小劇場でも、地上波ゴールデンの特番でも基本的には変わらないと思います。
 
個人の能力テスト」だと思っていた大喜利が「みんなで色を塗る団体競技」に見えた途端、大喜利が大好きになりました。今、何よりも大喜利が楽しいです。本当に少しずつだけど自分の発想と表現が豊かになっていくのを実感できて本当に面白い。ライブの待ち時間にも大喜利が上手な芸人さんに付き纏って大喜利の稽古をつけてもらってばかりでうざがられているくらいです。
 
 
 
多様性を承認すること、自分の表現を貫くこと。この二つは矛盾しないばかりか、相互に貢献し合う関係にあるということ。
 
これは普遍的な気づきで、当たり前のようでいてなかなか普段は実感できないことです。
 
でも「こんな忍者はイヤだ」という限定した世界に面白い人たちが集まっていれば簡単です。
 
たとえ回答で盛大にすべったとしても、その人のキャラクターに魅力があったりおしゃべりが上手だったりすると、その後のリアクションが大きな笑いを起こします。
 
 
 
大げさなことを言っているのは重々承知していますし、大喜利を心底楽しんでいる人はこんなことを考えたこともなく軽やかに大喜利と戯れているのでしょう。でももしかつての私のように大喜利食わず嫌いの人がこれを読んで、ちょっとでも見方を変えたら楽しめるかもしれないというお節介心で書きました。
 
以上。