XXCLUB大島育宙のほざくこと

できる限り再読に耐える文章をアップできるよう努めます。

出張怪談はじめます。

※現在、体調不良により7月中は出張できません。ご迷惑おかけしております。リンク先のカレンダーは8月の空きまでのみ記入済みです。

 

 

出張怪談を始めます。

最近、プロの怪談師の方と触れる機会が激増し、皆さんが足で怪談に触れていることを実感し、刺激を受けました。呼んでくれた人と雑談しながらその人に合った怪談を話します。怪談を話す場がほしいし、怪談を話すことと聴くことは表裏一体で、話していくうちにネタが育っていけばいいなとも考えています。

 

zyasuoki@gmail.com

まで。

・本名

・電話番号

・ご職業

・希望の日時(第1〜第3希望)

東京23区内の駅名と時間を60分単位でお書き下さい。

例)

①6/25 19:00 新宿

②6/28 22:00 渋谷

③6/25 17:00 新宿

・交通費が往復1000円を越えた場合のみ超過分を頂戴します。

・基本的に60分でお願いします。興味深いお話をお持ちの方には延長してこちらから取材をさせて頂く場合もあります。

https://freecalend.com/open/mem87488_nopopon

こちらからスケジュールをご確認の上希望日時を選択下さい。

・駅から近い飲食店をご指定頂けるとありがたいです。飲食代は奢って下さい。

・飲食店でない場所の場合は、高め(500円以上くらい)の栄養ドリンクを頂けると助かります!

はじめて人前で怪談を披露したら霊を呼んでしまった話

まさかそんなことはないだろう、と思っていたことが起こる。
人生はそういうものだし、死者との関わりなんて尚更そうみたいだ。
 
1年ほど前から怪談の蒐集に凝っている。
テレビやネットで手に入れたものではなく、自分が経験した話か人から直接聞いた話、という縛りをかけて飲みの席や空き時間の団欒の中で募る。
はじめはみんな
「ごめん、ないや」
と言うが、面白いもので、食い下がれば意外と
「そう言えば…」
と話し出す。
 
個々の情報は一見取るに足らない、オチも展開もない他愛もない断片
しかし、それが孕むかすかな違和感をカテゴライズし、集積して再構築しながらひとつの話を紡ぐと恐怖が純化されていく。
人の感情を揺り動かすことの根源的な構造に触れている感覚は何物にも代えがたい。
 
聞いてはメモしを繰り返しているうちに、私のスマホにはかなりの数の禍々しい逸話のかけらが貯まった
 
やがて不可解なことが次々にそのスマホに降りかかった
 
最終的にスマホは1台は壊れ、買い換えた次の1台は説明がつかない形で手元から消えてしまった
 
そんな時に、いつもお世話になっているお笑いライブの、普段とは違う種類のネタにチャレンジする企画に呼んでいただいた。
私は普段、相方とコンビで漫才をやっているので、その企画では漫談(一人しゃべり)に挑戦することになった。
 
舞台に初めて一人で立つ。
いろんな動画を見て漫談について考えた。
「面白い話をする」という触れ込みで登場して看板通りに笑いを取るのは、コンビの片方がツッコミ役に回り、笑い所に補助線を引くのと比べると、ひどく難しいことに思えた。
悩んでいた時にふと、芸人さんが集まって怖い話を持ち寄る番組では、まあまあの確率で話の終盤に大きな笑いが起こることを思い出した。
 
話のオチ自体が意外にもコミカルでウケることもあるし、オチはしっかり怖いのだけどその怖さに対する周囲のリアクションで安心の笑いが起こることもある。
いずれにせよ、怪談のシリアスさとその後の安心感の落差が鍵に決まっている。
 
「緊張と緩和」というお笑いの教科書の1ページ目をこんなに意識的に使う日が来るとは思わなかった。
怪談を蒐集する過程で自分の身やスマホに起きた怖いことをまとめて緊張感を高め、オチが意外とくだらなくて安心するような構成で話を組み立てた。
そこでウケないと嫌なので、その後にも再びの緊張とより大きな緩和のオチを用意して予防線を張った。
 
怖い話
コミカルなオチ①
怖い話(続き)
コミカルなオチ②
 
という無難に無難を期した構成。
 
若手芸人のチャレンジを温かく見守る、というライブの空気も相俟って、1個目のオチは予想より大きな笑いで受け入れられた。
押せばもう少しハッキリ笑ってもらえると感じたので、霊を畏怖の対象からぐっと親しみの対象に引き寄せるような、ともすれば罰当たりなオチを、私は予定よりしつこく繰り返した。
 
その時点で手元のストップウォッチを見ると、持ち時間ちょうどくらいだった。
 
本当はそこでネタを締めてもよかった
 
しかし、お笑いネタライブなのにオチ以外はほとんど笑いどころがない構成だったのを急に申し訳なく思った私は、このまま次のオチまで行ってしまおうと思い立った。
 
「この先もう一個オチがあるんですけど話していいですか?
 
お客さんに呼び掛けてみたその瞬間だった。
 
ブッブーーーーー
クイズの不正解の時に流れるあの音響が大きな音で流れた。
 
その瞬間、私は「長いからもうネタを締めろ」というスタッフさんの指示なのかな、と思った。
次の瞬間には、チャレンジネタのコーナーには実は「〇×判定」があり、自分はお笑いじゃないようなネタをしたので不合格になったのかな、と思った。
その次の瞬間には、いずれだとしても自分は芸人としてミスをしたのであり、恥ずかしいと思った。
 
しかし、「え?どういうことですか?」と舞台袖に聞いても何の反応もないので締め損ね、結局怪談の続きとオチ②を手短に話して、逃げるように舞台を降りた。
 
袖ではスタッフさんと司会の芸人さんが顔を見合わせてそわそわしていた。
そこで私ははじめて何が起きたかを聞かされた。
 
そのコーナーに「〇×判定」はないこと、
そもそもスタッフさんは音響機器を触っていないこと、
私が客席に問いかけた瞬間触っていないバインダーが棚から1枚だけ勢いよく落ちてきて、その角がたまたま「×音のボタンに当たったこと
 
バインダーが乗っていたを実際に見たが、それはボタンの真上ではなくかなり離れた斜め上 の、物理的に不自然な位置にあった。
 
そのライブ制作会社さんでは、演者のネタ中に関係ない音響が流れたのは、10年以上の歴史の中で初めてのことだと言う。
 
 
タイミング的にも、効果音のチョイス的にも、目先の笑いを取るために霊への敬意を欠いた私への警告としか思えなくなった。
 
 
私は深く反省した。
霊が現実にいるかどうかはどちらでもいい
しかし、こうした偶然とも必然ともつかないできごとが、否応なしに人間の行動に影響していくこと、そのメカニズムそのものが」だと言ってもあながち間違いではない、というのが現時点での私の霊魂に対する理解だ。
 
 
 
 
 
 
その後のライブのエンディングで、普段では滑り知らずの芸人さんたちがボケてもボケても皆一向に思うように笑いを取れなかったのが偶然なのか、いまは知るすべもない…。
 

「お笑い芸人」は偉いし、これからもどんどん偉くなるという確信の・ようなもの

 
 
こちらの記事は加筆修正の上、noteに転載しました。
 
 
 

映画『帝一の國』について本気出して考えてみた

2017年、最高だった映画『帝一の國』について書きます。時間がない人は太字だけ読んで下さい。
 
映画『帝一の國』は古屋兎丸先生のマンガの実写版で、海帝高校というエリート男子校に通う生徒たちが、総理大臣を目指すためにその足がかりとして生徒会長の座を争う青春群像劇です。
 
青春映画は数あれど、『帝一の國』がいかに特別かということを説明します。
 
 
 
 
1.最終目標と劇中のドラマの落差 
 
 
まず、大いなる目標への助走のごく序盤を描いているという点。
 
例えば、多くのスポーツ漫画は、高校生の最後の夏の大会を目標にしたお話です。
 
その登場人物たちの意識は、あくまで甲子園や全国大会と言った目先の目標に集中しており、チームメイトやライバルの多くはプロに進まなかったりします。「ドカベン」のような、ほとんどのキャラクターがプロで活躍する漫画にしても、甲子園での優勝は後の人生の足がかりとしてではなく、それ自体達成することに意義がある夢として描かれます。
 
それに対し、『帝一の國』のキャラたちは実にドライです。海帝高校の生徒会長になるために心血を注いでいるけれども生徒会長の座それ自体に憧れてはいない。あくまで将来総理大臣になるための手段として、政界の海帝閥で有利な位置につけるための通過点として欲しています。
 
 
 
主人公・赤場帝一の学年の生徒会長が決まったところでお話は終わりますが、この後も彼らの総理大臣レースという長く険しい道程は、おそらく彼らが還暦を迎える頃にまで続いているのです。帝一の國』は、長い長い人生を賭けた架空の「本編」のごくごく序盤のみ描いた、いわば「前日譚」的な位置付けの青春群像劇と言えます。
 
人生を賭けた大目標に必要な努力の数を仮に100とすると、生徒会長選挙はそのはじめの1にすぎないかもしれない。
 
彼らはその「1」にさえ躓き、苦しみ、なんとか乗り越えようと醜いまでの努力をします。
総理大臣という大目標に対し、高校の生徒会選挙という舞台設定、その規模の落差は映画史上最大クラスでしょう。
 
その姿が滑稽だからこそ、ともすると堅い話になりそうな本作が原作、映画ともに王道のコメディとして魅力的になっているのですが、我々の人生における多くの努力や挫折の本質とそう遠いところにはないと思います。
 
例えば受験でも就活でも恋愛でも、我々の人生に訪れる多くの試練は、それ自体が大きな困難であり目標であるけれど、同時にその先にある生活の始まりに過ぎないことが多いです。多くの劇映画はその始まりと終わりを描くけれど、それよりも、大目標を掲げ、そのずっとずっと手前の関門で苦しむ彼らの姿は、実は我々の現実に近い。荒唐無稽な設定ながら多くの観客が感情移入してしまう理由はそこにあります。
 
 
 
 
 
上記は、『帝一の國』の原作にも映画にも共通の魅力です。
では、映画版特有の魅力はなんでしょうか。
 
 
2.青春映画における「名作の条件」
 
それは私が考える青春映画の名作の条件と大いに関係があります。
登場人物と役者の人生のシンクロ」です。
 
例えば『バトル・ロワイアル』(出演:藤原竜也前田亜季山本太郎栗山千明塚本高史、高岡奏輔、柴咲コウ安藤政信ほか)という無類に面白い映画があります。今振り返ると豪華なキャストだなと思える割に、クラスメイト一人一人が次々に死んでいく映画なので、実際に観てみると役者さん一人一人の見せ場は非常に少ないです。キャリアの初期に深作欣二監督という巨匠の作品に抜擢されたものの、どうやら一人当たりの出番は少ない。ならば何とか限られた出番の中で爪痕を残してやろう、という俳優たちの覚悟が、無人島で殺し合いをさせられる高校生の鬼気と重なって画面上に奇跡が起きています。
 
何者』(出演:佐藤健有村架純菅田将暉二階堂ふみ岡田将生山田孝之ほか)という、就活に臨む大学生たちを描いた作品も、あらゆる仕掛けに気配りが行き届いた本当に面白い映画です。それに加え、若手俳優としては地位を築いた俳優さんたちにとって、これから名優として歴史に名を残していくための競争とは、映画・ドラマ・演劇の一本一本それ自体が就活のようなものでもあるのかなと思わせられます。映画を観ている間にそこまで考える訳ではないですが、劇中の大学生が自分の見せ方や生き甲斐について悩む姿に、人気若手俳優から中堅実力派俳優へのシフトチェンジを着実に進めるキャスト陣の人生が重みを加える効果は絶対にあると感じます。
 
もちろん、こうした見方は穿った、ある種マニアックな見方であると思います。
ただ『ロッキー』がシルベスター・スタローンどん底からの挑戦とシンクロしているから感動が増幅することを我々は知っています。
 
ここであえて『帝一の國』について確認する必要もないでしょう。菅田将暉、志尊淳、千葉雄大野村周平竹内涼真間宮祥太朗(敬称略)といった人気も実力も兼ね備えた面々が、歴史に残る名優になるべく鎬を削っている時期であることは誰の目にも明らかです。役者としても生徒会メンバーとしても、お互いが仲間でありライバルであることに変わりはないでしょう。
 
 
原作のラストでは数十年後、初老になった帝一が総理大臣になっていることが示されますが、映画版にはそのシーンはなく、メインキャラたちの誰が総理になってもおかしくない予感を残している点で、より開かれたラストと言えるでしょう。
 
 
 
人生を賭けた目標に向けた初手の奮闘」を描きながら、同時に「登場人物とキャストの人生がシンクロする」という条件も満たした映画はよくよく考えると非常に珍しいし、その試みが高度なエンタテインメントとして結実しているのは本当に凄いことです。
 
 
 
既に大人気の作品なので私が語るまでもないとは思いましたが、これから『帝一の國』と言う映画が後世に伝わるに当たって、いろいろな種類の見方がある方が良いかなと思い、筆を執りました。まだの方はぜひ観てください。
 
以上。
 
 
 
 
 

「テラスハウス」最強説

皆さんは「テラスハウス」を知っていますか。
 
男女6人の台本のないシェアハウス生活を追う、という体裁のリアリティー・ショーです。
存在は知っているが、ちゃんと観た事がない人も多いのではないでしょうか。
 
私はこの番組が2010年代に生まれた最高のコンテンツの一つだと確信しているし、できるだけ多くの人が視聴して話題にしてくれることで、少しでも長くこの番組が続けばいいと願っています。
時間のない方は太字部分だけ読んでください
 
 
 
 
テラスハウスがなぜ面白いかと言うことを一言でまとめると「テレビドラマとして楽しむとあまりにもお得だ」ということです。
 
以下、いくつか具体的に説明してみます。
 
 
 
続編が自動生産されるドラマ
 
好きなドラマの最終回は悲しいけれど、第2シーズンが始まったり映画化されたりすると、もう一度ドラマのキャラたちに会えるような気がして嬉しいですよね。
 
テラスハウス」のメンバーのほとんどは卒業してからもSNSで発信を続けていて、彼らの人生を追うことができます。芸能活動をしている人も多く、卒業後、彼らの本業での活躍をメディアで目にする機会も多いです。
 
あくまで「テラスハウス」は彼らの人生というドラマのほんの一部に過ぎず、続編やスピンオフ作品は、彼らの人生が続く限り自動生産され続けると言えます。
 
好きなドラマのキャストを他の作品やSNSで見ることができるのは普通ですが、そのドラマの役柄のままということはないでしょう。
 
ドラマのファンにとってこれ以上贅沢なことがあるでしょうか。
 
 
 
見たことのないキャストばかりのドラマ
 
普通にTVでドラマを見ていると、どうしてもお馴染みのキャストが多く出ていて、それぞれの役柄に先入観を持ちます。
 
俳優さんが今までのイメージを覆すような役作りをするのも面白いですが、それだって先行するイメージが前提にあるわけです。
 
しかし、現実の人との出逢いの多くは予備知識ゼロの状態で起こります。
現実と同じようにドラマの人間関係に没入するなら、見たこともない俳優陣で固められた、それでいて映像に低予算感がないドラマや映画があっても良いと思うのですが、「テラスハウス」以外にはほとんど実現された例はありません。
 
 
 
ロケ地が全て本物のドラマ
 
映画やドラマの撮影では、現実の土地を舞台にする場合、撮影許可を得るのが難しいからか、似たような別の場所でロケをすることが多くあるようです。
例えば新宿・歌舞伎町を舞台にした映画のエンドロールを注視していると、地方都市の歓楽街がクレジットされていることがよくあります。
 
しかし、テラスハウスではそうはいかない。渋谷でも湘南でも、主人公が行く場所が全て本当のロケ地になる。
 
ロケ地の数だけ見てもドラマとしては驚異的だし、しかもそれが全て現実の土地で撮られていることを考えると、こんなに貴重なことはないです。
 
 
 
上記①〜③の条件を満たす豊かなドラマは他に存在しないと断言できます。
自分の好きな映画・ドラマでこれが実現されたら、と思い浮かべてみてほしいです。
 
 
 
これらの魅力はどれも「現実と地続き」である(っぽい)ことに依拠しています。
そして、ドラマとしてのテラスハウスの本編が劇的で虚構的であればあるほど現実との見かけ上の距離は大きくなります。
 
虚構と現実が地続きであることの感動は、その飛距離に比例するので、
 
・「カット割りが恣意的で嘘くさい
 
・「美男美女がはしゃいでいるのが非現実的でいけ好かない
 
といったよくある批判は、私にはむしろテラスハウスの魅力を補強する声に聞こえます
 
つまり、虚構と現実が地続きであることで感動させるならば、
 
・映像は嘘くさければ嘘くさいほど、キレイならキレイなほど良く、
・現実との繋がりは、多ければ多いほど良い、
 
ということになり、その二つを最もストロングスタイルで突き詰めているコンテンツがテラスハウスだと言えます。
 
 
 
E.T.』でも『トイ・ストーリー』で泣ける我々は、設定がフィクショナルだとしてもそこにある感情が本物であれば感動できることを知っています。
 
一見すると非現実的な世界が我々の住む現実と地続きであれば感動できるのは当然であり、その「地続き」のポイントは感情でもいいし、実在の土地や人物であってもいいはずです。
 
現実を撮ってるはずなのに虚構みたいじゃん」ではなく、「虚構みたいなのに実は現実なんだね」というのがテラスハウスを百倍楽しむ秘訣だと思うので、百聞は一見に如かず、食わず嫌いの方は是非一度ご覧下さい。
 
以上
 
 
 
 
※12月19日から新シリーズがNetflixで配信されています。
入居者は全員新メンバー、内輪ネタはほぼ皆無なので、見始めるなら今がチャンスです。 
 
 
 
 
 

大喜利について語るときに僕の語ること

 
皆さんは「大喜利」と聞いてピンと来ますか。
 
 
お題に対して面白い答えを思いついたら手を挙げて答えると言う遊びで、「笑点」などでお馴染みと言えば詳しくない方でもイメージが湧くかと思います。最近では『IPPONグランプリ』などの影響で、手持ちサイズのホワイトボードに書いた答えをお客さんに見せながら読み上げる形式がお笑いライブ界隈では定着しています。
 
 
大喜利はすごいです。みんな真剣に手元のホワイトボードと向き合っています。じっと真顔で虚空を見つめている人もいれば、自分の思いついた回答にニヤついてる人、黙々とペンを走らせている人もいます。ところが一転、司会に指された一人が本当に面白い回答をすると、みんな一斉に自分の作業を中断してアハハと笑います。
 
多様性の承認のレベルがえぐいです。大喜利が好きな芸人さんやハガキ職人さんたちは、みんな人並みよりも多めの自己顕示欲を持っている以上、我がが我ががとアピールしたいはずなのに、他の人の答えも熱心に聞きたがります。自分の発想を表現することと他者の発想・表現を認めることは矛盾しない、ということがこれほど好くわかる瞬間もなかなかないです。
 
 
 
 
大喜利が強い芸人=デキる芸人」という風潮が嫌いでした。
 
私は見た目や経歴から、頭がいい立場を求められることが多く、大喜利も余裕でできるんじゃないかと思われがちです。ただ、学ぶのが得意だったり好きなことと、豊かな発想をアウトプットすることは全然別の能力で、私は後者が滅法弱いのです。
 
 
私がこねくり回したような浅はかな答えを出すと、「あれ、面白くないな?」「でも、なんかこの人賢いっぽいな」「実際に賢いかはともかく、周りから賢いとされてるっぽい態度だな」「ってことはこの答えも面白いのかな」「実際に面白いかはともかく、とりあえず笑っとく雰囲気なのかな」という判断がお客さんの中で瞬時に働いて、丁度「ウケたともすべったとも言えない変な笑い」が起こります。そのまま何の余韻もなく、何事もなかったかのように次の人の回答が始まります。要するにみんなに気を遣われるのです。それが申し訳なくて、ライブで大喜利の企画に出ないように出ないようになるうちに、私の大喜利力はどんどん弱っていきました。
 
 
 
 
その頃大喜利が楽しくなかったのも今思えば当然だなと思います。団体競技個人競技と履き違えていたからです。
 
 
大喜利をみんなでやる醍醐味は「多様性をどこまで広げられるか」という目標に向かうチームプレーにあるのかな、と思います。
 
みんながまだ塗りつぶしてない余白を見つけてどんどん色を塗っていく共同作業です。鋭い回答が場をワッと盛り上げるのは、単なるウケを越えて、「あ、そんなところにまだ余白があったか!でかしたぞ!」という昂揚に私には見えます。もちろんその過程で「自分らしい答えを出したい」「特に笑いを取って目立ちたい」という欲求も働きますが、それは場全体の盛り上がりに寄与するし、決して他の人の表現を邪魔する承認欲求ではありません。この点は、客席が20ぽっちの小劇場でも、地上波ゴールデンの特番でも基本的には変わらないと思います。
 
個人の能力テスト」だと思っていた大喜利が「みんなで色を塗る団体競技」に見えた途端、大喜利が大好きになりました。今、何よりも大喜利が楽しいです。本当に少しずつだけど自分の発想と表現が豊かになっていくのを実感できて本当に面白い。ライブの待ち時間にも大喜利が上手な芸人さんに付き纏って大喜利の稽古をつけてもらってばかりでうざがられているくらいです。
 
 
 
多様性を承認すること、自分の表現を貫くこと。この二つは矛盾しないばかりか、相互に貢献し合う関係にあるということ。
 
これは普遍的な気づきで、当たり前のようでいてなかなか普段は実感できないことです。
 
でも「こんな忍者はイヤだ」という限定した世界に面白い人たちが集まっていれば簡単です。
 
たとえ回答で盛大にすべったとしても、その人のキャラクターに魅力があったりおしゃべりが上手だったりすると、その後のリアクションが大きな笑いを起こします。
 
 
 
大げさなことを言っているのは重々承知していますし、大喜利を心底楽しんでいる人はこんなことを考えたこともなく軽やかに大喜利と戯れているのでしょう。でももしかつての私のように大喜利食わず嫌いの人がこれを読んで、ちょっとでも見方を変えたら楽しめるかもしれないというお節介心で書きました。
 
以上。